雑感~20110331

オセロゲーム                                                       20110331

 

 僕はオセロゲームがあまり好きではなくて、それは、負けることが嫌いでなおかつオセロゲームが下手だからだ。でも、それだけでもない。

 

 日米安保闘争のことを特に調べたり聞いたりした経験はないけれど、思想的左右両派がオセロゲームばりに引き合いをして、それがあまりに尖っていったために殆どの駒がグレーになってしまい、それに腹を立てたり無力感に苛まれた黒と白がヒステリーへの道を走ったのだろうと理解している。

 

 民主主義も、51対49で結果を出すことに注目すればオセロゲームそのものだ。アジテーションやプロパガンダが止まない理由はここにある。

 二大政党制という欧米のシステムへの漠然とした憧れがこれに拍車をかけたのだろう。 最近の日本では、グレーが黒か白かにならなければいけないという強迫観念からシーソーが激しく動いているようにも見える。

 

 二項対立は両極端に位置する人の生活(精神)の糧にされているけれど、そろそろグレーのマジョリティーが黒でも白でもないことを宣言する機会が訪れるのだろうと思う。

 

 そうでなければ、ここに及んで、建設的に話し合う以外に道はあるだろうか。

Djavan                                                             20110329

 

 ブラジルのミュージシャン、ジャヴァンのヒットアルバム、「Luz(光)」を聴いたのは学生時代の終わり頃で、まだLPだった。ポルトガル語の曲に多少違和感があったものの、南国の気配が溢れてくるようでとても新鮮な感じがした。

 

 就職して30歳に近付くと、終電を気にしていられない日が増えて車を使うことが多くなった。J-Wave開設をきっかけにラジオを聞くようになり、他のミュージシャンが何人も「Sina」という曲をリメイクして歌っているのを聞いて、懐かしくなってCDで買い直した。

 限界に近い忙しさに疲れ切ってしまい、気持ちがつぶれそうになったりした時、246を走りながら「Sina」のサビ部分

「・・ウルワ、エステラ、ドゥマ、オゥソユド・・・・」を、身を乗り出して大声で一緒に歌うと、なぜか世界が簡単に見えてくる気がして、いくらか立ち直れるのだった。

 

 最近になって、少し現代風にアレンジして収録し直したものを発見したのだけれど、少しも褪せた感じがしなくて、真夏に、どこか広い所に作った仮設ステージで見られたら良いのにと思った。南房総が似合う気がする。

明快な解説                             20110327

 

 今日のグーグルニュースの目次、終わりの方にあるピックアップ欄の日経ビジネスオンラインの記事が、とても明快だと思った。

【今の放射線は本当に危険レベルか、ズバリ解説しよう】

 

 他のいろいろな発言をみて、論理破綻していても一向に気にしない自称学者がたくさん居ることに驚嘆した。

 マスコミは蛇口のようなもので、何が出てくるかはわからない、ということが身に染みた半月だった。

 

津軽三味線を聴いてひと息つく。

上妻宏光 - 游 

ひとの体温                             20110327

      

 火事の煙を見ている人達に、「爆発する、逃げろ」と言う人がいたとき、それを止めるのは良くないと思う。

 でも、聞く方は自分で考えなければならない。今回の原発事故で、いろいろな発言が飛び交っているのは興味深くて、専門知識がない僕はかなり情緒的に判断するしかないのだけれど、意外とこの情緒が頼りになる気もする。

 

 原発問題は、理解する難しさから普通の人は検証を諦めていた。今回はとてもたくさんの見解が表明されているので、研究者を自称している人の発言目的がどこにあるのか観察しやすい。

 インターネットで辿り着いたものに、次のものがあった。いろいろな種類の放射性物質が、東西の冷戦時代にたくさん降っていたことが示されている。

http://getnews.jp/archives/105218

 

 この事故が (たくさんの自衛官や消防隊員、東電関係者によって) 終息に向かってくれた時、考えなければならないことが見つかっている。事故は、事故以外のことを告発しているとも感じる。

 

 今は、福島原発を見るのと同じ以上に、暗闇の氷点下で夜を過ごす人の体温を気にするべきだと思いなおした。

害は無い                                                             20110326

 

 消費期限は過ぎてしまっていて、色もちょっと変に見えるかもしれないけれど、食べて病気になる人は滅多にいませんよ。

 と、言われているような気がする。

 

 ごく大雑把に言って、疑ってはいない。でも、待っているのにも限度がある。ということを感じられない人は表にいるべきではない、と思う。

累積放射線量                            20110326

     

【毎日新聞 2011年3月26日 東京朝刊】

 文部科学省は25日、東日本大震災で被災した東京電量福島第1原発から北西約30キロの地点で、24時間の累積放射線量が最大約1.4ミリシーベルトに上がったとする測定結果を発表した。防御なしで屋外にいた場合、一般の日本人の人工被ばく年間限度(1ミリシーベルト)を超える放射線を1日で受ける計算となる。・・・中略

 ・・・「自主的に避難することが望ましい」との助言を、原子力災害対策本部(本部長=菅直人首相)に対して行った。 (記事終わり)

 

 朝、日本テレビで文部科学省の測定結果を地図に落とし込んだものを見て、とても驚いてインターネットで検索した。テレビで見ているときは単位を見誤ったのか、もっと大変な数値だと思ったのだ。

 

 でも、この新聞記事も大変な結果を表しているのに、望ましいとか助言程度なんだ、と驚く。 (この後、人工被ばく年間限度を上げるのだろうか)

 テレビでは半減期という言葉も聞こえたけれど、被曝は既に起こった事実だし(これから半減など有り得ない)、汚染源が解決されていない以上、残留放射能の低下を持ち出すのは極めて恣意性が高い。

 テレビがなぜ、定点観測での放射線の累積値をまとめないのか不思議だったけれど、期待する方が間違いということか。

 

 飯舘村でパニックが起こらないことを願うと同時に、本当の責務を感じている研究者の解説を聞きたいと切に思う。

「死ぬな生きろ」 展                       20110324

 

 藤原新也さんが東銀座の画廊で写真と書による個展を開いていて、3/5と3/12にはトークライブが企画された。

 僕は、3/12の予約を済ませて楽しみにしていたのだけれど、大震災が起こり3/12は中止された。

 

 個展だけは見に行って、とても感激した。その気持ちを上手く表現できないと思っていたら、感想を寄せた人のひとつを藤原さんがブログに公開した。(3/23の記事)

 

 印画紙に藤原さん自らが焼き付けた写真は、印刷とはまったく別のもので匂いと水気を含んでいる。とても暖かい。

 

 会期が延長されて今月いっぱいになっているので、近くに行かれるならぜひお勧めしたい。募金も受け付けている。

 

http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

 

http://www.nagai-garou.com/ 

横町談義 終                                                         20110324

 

 一昨日、高校時代の友人Inn が大前研一さんの原発事故に関するインターネット番組を教えてくれた。(見たのは13日放映のもの)

http://www.youtube.com/user/BBT757program

 

 震災のわずか二日後に、10日以上経った今聞いても確かさと専門性において驚嘆する内容を発している。

 この中で大前氏は色々示唆しているのだけれど、印象に残ったのは、

・当面、原子力発電は閉鎖・停止の方向に推移するしかないだろう。

・電力が1/3失われるので、エアコンなど2/3で運転できるものに切り替えるべきだ。

という指摘だった。

 

 日常が2/3の消費電力で賄われるようになったとき、輪番停電が終わるということだろうか。(ピークとか火力発電の難しい話を割愛して)

 そう思って日本の一人当り消費電力を調べて見ると、2008年で比較すれば、2/3を掛けてもイタリアより少し小さいだけだった。

http://www.fepc.or.jp/present/jigyou/shuyoukoku/

sw_index_02/index.html

 

8072(日本)×2/3=5381≒5656(イタリア)《単位:K wh/人・年》

世界平均は 2782 だ。

 また、日本の過去に遡ると1985年頃になるようだ。

http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0220a/contents/f_02_09.html

 

 産業と生活の需要構成比を考えていないし、日本とイタリアでは都市への集積度が大きく違うから、比較はとても乱暴で稚拙なものだけれど、桁が違うという話でもないと思う。

 社会や産業構造を長期的に考えるなら、どこかに目標が見つかるかも知れないと思った。

横町談義3                                                          20110323

 

 原子力発電の是非に関する論争と他の論争を比較すると、文化の違いによる対立軸が際立っていないぶん、解決への道が見通せる気がするのは楽観的過ぎるだろうか。

 

 捕鯨問題は、科学的な論争もなされているようだけれど、出発点が対立する相手を心情的に憎むかどうかというものだから、落着点が見えにくい。

 沖縄の基地問題は、アメリカという日本から見た第三者が常に影響力を持ち続けているという点で、難しい三角関係に陥ってしまいがちだ。

 

 原発の問題に僕があまり関心を持てなかったのは、核に対するアレルギーと経済的に疲弊した地域の必死の生き残り策、という別の論点を、政治家が自らの存在感の誇示のために利用している、まるで噛み合わない宣伝合戦だと見ていたからだ。

 でも今回の事故で、僕の無責任な冷笑や傍観が間違いであることを自覚した。想像でしかないけれど、そのように思い始めた人も少なくないのでは、と思う。

 

 インターネットで見ると、原発の推進・反対という両者の論争は、権力の暴走 vs 市民の良心、(逆に見れば) 現実的な統治 vs 夢見がちな理想主義、という構図になることが多いようだ。しかしそれは原発を材料にしているだけで、社会的発言の主導権の奪い合いという側面があるように僕には見える。

 そのことの是非は別の議論として、今、目の前に提示されたのは、現在《と将来》の豊かさのために、将来にどこまでつけ回しをして良いかという問題だ。これは専門家に委ねる内容ではない。

 

 議論の方法はいろいろあるだろうけれど、まずは政治理念の一番目に位置づけるべきだと思う。少なくとも当面の景気対策よりは上でなければならない。

 復興を成し遂げるまでの時間が、それを考え、方向性を出すために与えられるぎりぎりの猶予ではないか。

 この議論の行方で、復興される町も全く違った姿になる可能性があって、ひょっとするとそれは日本の希望たり得るかも知れないと思うのだ。

横町談義2                              20110322

 

 何十年も論争のあったことを、わずか数日でわかろうと思ったわけではない。ただ、考え始めるきっかけが必要だと思った。そういえば、僕は原子力発電に積極的な関心を持たなかったけれど、普通の人はどのくらい知っているのだろう。

 

 インターネットであちこちのページを見ると、溢れ出すものですぐ一杯になって、それは何百本もの糸がもつれたような状態で、その糸の端緒さえ見つからない。

 そんな状態での始めの一歩は、やはり核分裂に関する初歩知識だ。

 

・エネルギー源のウランは便宜的に燃料と呼ばれるけれど、燃やすわけではない。原子力とは核分裂時のエネルギー放射だ。

・だから、ウランは別の放射性物質に変異しているだけで、少しも質量は減らない。

・減らないどころか、放射性物質としては種類が増えて半減期が短いものになっている分、はるかに扱いにくく危険なものになっている。

・使用済核燃料棒の廃棄については、未だ世界中で有効な手立てが見つからず、積み上がる一方だ。

・大勢は地中に埋め込むことだけれど、その作業事態が危険に満ちていて、地中でも何万年も放射線を出し続け、それが人類や地表に悪い影響をもたらさないかどうか、評価が割れている。

・使うエネルギーは今日明日のものだけれど、片付けるのは次以降の世代だ。

 

 原発は科学的検証よりも賛否が先に生じたので、関係者の主張が極めて先鋭化して、議論のテーブルなどとっくに失われているようにすら見える。

 きっと、主体(国民的・人類的合意)の見えないことが一番大きな問題だろうと思い、遅きに失しているとしても反省する。

 

※文部科学省の放射線量モニタリングデータ:http://www.mext.go.jp/

今日の報道                                                           20110321

 

 夕方妻とスーパーマーケットに行ってみると、見たことがないくらいガラガラに空いていた。不思議に思って店員さんに訊いてみると、午前8時半の開店前に列ができるような客の出足だそうだ。

 でも、玉子が無かった他は、ひと通り手に入った。

 

 家に帰ってテレビを見ると、昨日までよりずっと人の気配が伝わる詳細な報道があった。どこか鳥瞰的で断片の集積だったものが、継続的で表情のよく見えるものになっている。

 その中に、たくさんの誠実で強い人を見た。

 

 何より驚いたのは、原発で水素爆発が起きていた時、自身の安全を二の次にして配管・配線などの復旧に立ち向かっていた人が多くいたことだ。

 テレビを注視していたつもりなのに、少しも想像できていなかった。

 

 現地に確かにある復興への強い意志は、直接的な被災のない人々にも光を灯したのだろうと思う。

横町談義                                                             20110321

 

 原子力発電に関して、インターネットで見たことを繋ぎ合わせると次のようになる。関心を持ったばかりなので勘違いもあるかも知れないけれど、それを前提に、横町談義として考えるきっかけにしたいと思った。

 

・ウラン235という元素は自然界に存在し、中性子を取りこんで原子が分裂し、エネルギーと新たな中性子を放出する性質があり、外からエネルギーを加えなくても連鎖するので大きなエネルギーを取り出すことが可能である。

・ウランを含む鉱石から高濃度のウランを取り出すことができる。(原発燃料純度:3%、原爆純度:限りなく100%)

・瞬時に連鎖分裂を起こさせると核爆弾となり、制御しながら分裂させると熱を発し、発電のエネルギーとして有用となる。(目安として、同じ質量なら石油や石炭の300万倍)

・原発では、核分裂エネルギーを火力や水力と同じようにエネルギー源として活用し、水蒸気を介してタービンを回して発電する。(意外と古風でわかりやすい仕組み)

・故に、原発ではウランが暴走して核分裂しないように制御することが命で、それは冷却と中性子の供給量で管理する。

 

☆今回は津波が原因の停電により、冷却水が回らなくなったのが事故の発端。

 

付録

・ウランを核分裂させる過程で人工物としてのプルトニウムが否応なく生まれ、これが軽量原爆に使われやすいことから国際的に管理が注視されている。

・プルサーマルは、余って仕方のないプルトニウムをウランと混ぜて再燃焼させるもので、エネルギーの再利用という見方と、原爆製造懸念を解消するための対処という見方がある。 そして、あまりの技術的困難から、原発利用各国でもプルサーマルは退潮傾向にあるようだけれど、日本では推進派の勢いが維持されているようだ。

・放射性物質としての半減期は、物質によって数時間からさまざまだけれど、ウラン235は7億年、プルトニウム239は2.4万年、セシウム137は30年、ヨウ素131は8日。

被曝                                 20110320

 

 放射能汚染についてインターネットで検索すると、科学的視点の解説ではとても難しくてわからなかった。

 

 少し角度を変えてみると、毎日新聞にわかりやすい解説があった。新聞のコラムだから読んだ人も多いと思うけれど、URLは次のものだ。

http://mainichi.jp/life/health/nakagawa/

 

 他にも見ていると、同様にわかりやすいものがあった。 どちらも御用学者のトーンとは明らかに違うようだし、何より断片的ながら繋ぎ合わせた複数の情報からも、少しも逸脱していないように思う。

http://kokusaigakkai.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-ca95.html

 

 これらの記事からは、現在の状況に限っては退避指示の区域外の人が右往左往することは無いのだろうと感じられる。もちろん推移を見守らなければならないけれど。

 

 今後、食品の安全性の確認と同時に、長期的な視点での原発の在り方を、自分や子・孫のこととして考えなければならないと肝に銘じた。

 

 復興のことも気になるけれど、まずは被災された人々に、今日の暖房と食事、薬、睡眠とトイレ、そして精神的ダメージの緩和、どれもが少しでも早く確保できることを祈る。

笑顔があった                                                         20110319

 

 明日明後日と天気が崩れそうなので、今日は昨年亡くなった義父の墓参りに出かけた。近くはない距離を歩いていると、多少風は強いもののうららかな春のようで、大震災の印象が薄くなる。

 

 まだ見えないガソリンスタンドに向けて、長い給油待ちの車の列があることが、テレビの映像を思いださせる唯一のことだった。

 家に帰ってテレビをつけると、被災者の様子を取材した番組だった。

「暖かいごはんを提供してくれて、こんなに嬉しいことはない。ありがとう。」

「いつか風呂に入れると待っていた。本当にうれしい。」

など、笑顔を見せてくれ、こちらが励まされてしまう。

 

 知人や親類に避難先を探し当ててもらい、「あ、生きてたか」という声が自然に出る。

 新潟の震災の時に協力した福島の村長さんを、新潟の市長さんが激励に訪れて抱き合っているシーンもあった。

 

 馬鹿みたいな感想だけれど、世間は広くて逞しいひとがたくさんいるのだなあ、と思った。

 それでも、テレビに映らない圧倒的多数の人は、明日を信じられない苦しみの中だろう。少しでも苦痛が和らいでほしいとお祈りする。

毎日新聞記事                                                        20110319

 

 被災者が懸命に発揮している忍耐力と自制心は、日本人である僕がみていても驚いてしまう。同じ状況で同じことができるかと聞かれたら、答えることができない。

 

 そんなとき、何かを非難するのは良くないけれど、それでも考える材料は必要だと思う。インターネットで見た毎日新聞に、ふたつの記事があった。

 

毎日新聞 2011年3月19日 東京朝刊

 福島第1原発の事故がレベル5と暫定評価されたことについて東京電力の清水正孝社長は19日未明、「極めて重く受け止める。広く社会の皆様に大変なご迷惑をおかけし、心よりおわび申し上げる。自然の脅威によるものとはいえ、痛恨の極み」との談話を発表した。【河内敏康、伊澤拓也】

 

自然の脅威によるものとはいえ、・・・・・とは。

 

 そして同じ毎日新聞には次の記事もある。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110319ddm002040014000c.html

 

 この記事には、原発建屋が水素爆発した時、東京電力が全員退避を打診して菅首相に却下されたとある。

 

 もちろん誰に限らず犠牲を強いることはあってはならないけれど、その後の推移を見ると、そしてそれが首相の指示とは言えすぐに撤回したという事実を考えると、その振る舞いはにわかには信じがたい。やはり、今発しているメッセージを信じることはできない、ということだけがわかる。

被曝量と被害                           20110318

 

 さかんに報道されている福島原発損壊による影響について、参考になる数値が藤原新也のページに紹介されていた。

 

 今日の午後、友人とのメールで、東京在住で家族の西方面への疎開を考えている人もあると聞いたので、参考になるかと思って引用する。

 

http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php 3/17の記事。

 

 研究者の試算ということで、素人の僕はコメントする立場にないけれど、現在の数値を固定して良いのか?という印象は持った。

 

 もう少しのあいだ、事態を見守ろうと僕は思っている。

ガソリン                                 20110318

 

 僕の家では、車は便利な道具であって必需品ではないから、ガソリンが無くても特には困らない。買い物にはいつも乗っていたけれど、歩いて行ける距離に別のスーパーマーケットがある。

 

 車検をぎりぎりまで延ばしていたら、大震災のあくる日に持っていくという、間の抜けたことになってしまった。戻ってきてみると残量メーターはほとんどゼロで、しばらくは置物のようになるけれど、仕方が無いと諦められる。

 

 自宅待機となった昨日、大規模停電が恐れられると聞いたのでエアコンを付けないでいると、結構寒くてあれこれ着込むことになった。ファンヒーターには少しだけ灯油が残っているものの、やはり残量はわずかで、最後に買ったとき18リットルにするかそれを二つにするか迷ったのが悔やまれる。もう暖かくなると思ったのだ。

 

 テレビで、高校生のボランティアや避難所での中学生の活動を見た。

 自宅待機・在宅業務で、電力不足下での通勤の消耗からも免れて、書いたように、とても緊張感があるとは言えない身の周りだけれど、応援したい気持ちは、嘘ではない。

 

 しばらく先になるけれど、なんとか役に立ちたいと思う。

脅威                                                                  20110317

 

 新聞などの論調で、政府のリーダーシップを疑問視する声が増えてきた。あろうことか海外メディアもこの非常時に、対応の不備などを批判し始めた。終息に向かってからするのが暗黙のルールであろうはずなのに。

 今の日本に決定的なダメージを与えることは容易だろう。しかし、マスコミはこのことに自覚的であって欲しい。僕などが、そんな希望を口にしたくなるほど最近のマスコミは子供じみている。

 

 大震災が起きた日の朝、既に管政権は瀕死の重傷だった。多くは政治家に帰する問題であったとしても、今までのどの政治家をしても解決困難な試練を与え続けてきたのは国民とマスコミだ。

 そうした政権がどれほどのリーダーシップが発揮できるのか。多くを期待できないことは日本人なら知っている。

 

 被災者の過酷な環境と、原発の暴走、この二つと同じかそれ以上に脅威なのは信頼の崩壊だ。

 試合中に罵り合い始めたチームが勝ったのを見たことがない。そして野次はその導火線なのだ。

苛立ちと焦り                                                         20110317

 

 なぜ、こんなに苛立ちがあるのかと考え、それは知りたいことを知らせてくれないからだと結論していた。しかし、枝野官房長官を始め、目に触れる人は精一杯の仕事をしているようで、では誰が混乱を助長しているかと考えても思い当たる対象が無い。

 

 「焦り」が、目標点になかなか届かないことから発生するとすれば、「苛立ち」はどちらを向いたら良いかわからないときの精神状態だろう。

 何かに似ていると思ってみると、それは日本の政治状況だった。そして、他にもあるのではと考えると、それは津波の先端映像の不気味さだった。先頭(首相)が次々と飲み込まれながら片端から一緒くたに破壊されていく。

 

 津波は観察すれば地形に影響を受けているけれど、政治の地形はわからない。

 東京電力も国会と同じだと想定すると、一挙に説明がつくようだ。大震災以前からリーダーシップを求める声が叫ばれ続けているけれど、政治と報道と世論調査の動きを見ていると、リーダーシップを待つと言いながら常に先頭に足をかけ飲み込もうとする自分たち、あるいはそうした流れに漂う自分たちがいる。

司令官                                                                 20110316

 

 福島原発損壊で、現場の東京電力関係者や自衛隊の関係者が、極限状態で奮闘しているという声が聞かれ始めて、肉体的、精神的疲労がどれほどのものかと思う。

 夫を送り出した女性が偶然テレビに写ったとき、普通の家庭では意識されない覚悟が滲んでいた。

 

 その人たちの切羽詰まった責任感は容易に想像できないし、軽々しく触れることも失礼だから、ただ感謝の気持ちを新たにして健康被害を受けないように祈りたい。

 被災者とそのひとたち、私たち自身の安全のためにも、原発のあり方や突発時の対応など、システムを住民レベルでも検証して考える必要があるだろう。今は、見守るばかりであったとしても。

 

 現場の献身的な活動があるほど、背後に司令官やその構成が見えなくなることはあって欲しくない。的確な戦略や試合運びをリードできなかった敗戦チームの監督・スタッフが、選手の頑張りを称えることがあってはならないと思うのだ。

 

 一傍観者でしかないとき、何かを言うのは滑稽に違いないけれど、最低限このいらだちを記憶に留めたい。

品切れ                                20110316

 

 大地震のあと、2回ほどスーパーマーケットに行ったら、同じ品切れが目に付いた。

 牛乳・パン・米・カップラーメン

 この中で、カップラーメンが無くなったのは良くわかる。非常食として被災地に優先的に向かっているかも知れないし、東京にしても停電など、何か負荷のあったときに便利だろう。

 でも、その他の品物が消えているのが不思議だ。特に米が品切れというのは買い溜めが理由とは考えにくいから、流通経路の問題なのだろうか。

 

 若い人の知らない石油ショックが起こったのは僕が中学2年の時だ。(1973年)遊びに夢中だったのによく覚えているのは、その時の友達の家にトイレットペーパーがあふれていたからだ。4畳半くらいの部屋の半分以上に積み上げられていた。

 その友達のお母さんがある宗教の熱心な信者だったから、その行動に子供なりの違和感を持った。自分達で使うにしても、仲間に分けてやるにしてもそれはなあ・・・と。

 

 僕の両親はモラリストたるべく自重したということではなく、ただ呑気に構えていた。だからトイレットペーパーが無くなって困るだろうなと感じたけれど、そういう事態には至らなかった。

 

 しばらくして、その友達に4畳半が使えるようになったか訊きたいと思ったけれど、意地の悪い質問だとは分かっていたので自重した。

単位と報道                                                           20110315

 

 福島原発の損傷が明らかになって、さかんに原子力発電の構造イラストがテレビに映されて、よくわからない解説を聞かされた。水素がどこに溜まって爆発したのか、ジルコニウムなる金属が何度で溶けるのか、僕たちが知りたいのはそんなことではないし、解説されたって何もわからない。

 それをただ繰り返す専門家とマスコミは共犯ではないかと不信感さえ持つ。時間稼ぎなのか。

 

 もっとおかしいのは、放射線量が単位も混乱したままアナウンサーによって繰り返し伝えられ、健康に影響は無いと言ってしまうことだ。

 マイクロとミリは千分の一の違いがあるし、レントゲンが一瞬の被曝であるのに対して、放射能漏れは例えば一時間当たりの量で、僕たちは、それより福島の人たちはそこに留まり続けているのだ。

 

 こうした齟齬を未然に防ぐのが東京電力であり、専門家であることに異論のあるはずもない。

 原発推進派に陰謀があるという説に与したくはないけれど、今の状況はそれを裏付けるものになってしまっている。良心、せめて共感は無いのかと憤りを感じる。

乾いた涙                                                              20110315

 

 若い時に読んで感銘を受けた小説に、「子供達に乾いた涙を見せてはならない」 という言葉があった。旧ソ連の作家の小説で、家族のあった男性が、第一次大戦の戦火に翻弄された後、小学校に上がる前くらいの少年と出会って道中を共にすることになり、水かさの増した川のほとりの陽だまりで、水が引くのを待つ時間につぶやく言葉だ。

 

 最後に読んでから時間が経ったので、内容には自信が無いけれど、ボランティアのことを考えていて思い出した。

 ボランティアの在り方にはさまざまなものがあるのだろうと思う。すぐさま現場に赴いたひともあるだろうし、さっそく救援物質や義援金を提供したひともあるだろう。

 

 僕は、濡れた涙が乾いた涙に変わるとき、きっとそれは静かな絶望を意味すると読んだのだけれど、何か役に立てればと考えたい。できるとは思いにくいけれど、そういう歳になっていると思う。

ボランティア                                                         20110314

 

 小田急線が運休なので出社を見合わせた。ずっとつけていたテレビを消すと、予定のないウィークデイの昼はとても静かだ。春のような気温は、被災者の冷え切った体を少しでも暖めるだろうか。

 

 数年前、高校の母校を訪ねたとき町が再開発で一変していて驚いたことがある。道路そのものの位置を変えているので、駅前から歩きだすこともできなかったのだけれど、そんな小さな出来事でも喪失感があった。

 

 阪神淡路大震災の時は、当時関係のあった大成建設の神戸支店の様子が心配でお見舞いに行った。映画のセットのような町を歩き、無力感で一杯になった。しかし今回がその時と大きく違うのはインターネットの有無だ。

 

 しばらくは打ちひしがれるばかりかも知れないけれど、失われたものを埋めるのは新たなスタートではないかと思う。それに向けてインターネットで何か、小さくてもボランティア活動ができないかと考える。

東京電力                              20110313

 

 地震の被害が未曽有の大きさであることがわかりつつある。地震と津波によって破壊された町や経済活動の復興もまったく想像を超えてしまっているけれど、これに原子力発電所の損傷が加わったことは大変厳しい。

 

 一か月ほど前、友人のブログで原子力発電所の問題を告発したサイトを知った。現場の最前線に居た人で、もう亡くなってしまったけれど、我々の知らない実態が記されている。

http://www.iam-t.jp/HIRAI/index.html

 

4月12日注:平井さんという方が講演などで原発の批判をしたことはあったが、上に紹介したページはその後他者から多くの加筆などがなされていて、科学的に見ても誤りが多いという指摘があり、僕も客観的情報としての信頼性が低いと考え直した。

 

 ここにあることも一つの情報で、鵜呑みにすべきではないかも知れない。でも、原発の修理が極めて困難であることと、廃棄ができないことは事実だろう。

 

 東京電力や東北電力、政府はどのように情報開示するだろうか。

 

 中東やアフリカの社会混乱、日本政治の終末的様相、検察・警察の失墜、どれもこれも情報の隠匿が自らの身を破滅もしくは無価値化に向かわせている。原発も例外では有り得ないだろう。

宮城・茨城大地震                                                   20110312

 

 昨日の夕方からずっとテレビを見ているけれど、それでも今回の地震の被害規模がよくわからない。いくつもの町が壊滅状態と報道されて、電車や船、屋根や車が一緒くたになってしまっている。コンビナートの火災や原発の炉心溶融なども合わさって、まさに非常事態だ。

 

 丸一日が経った今でも、報道する側も見ているこちら側も初めての光景に驚き、興奮が鎮まることがなくて一本調子の気分が続いている。これが醒めてきたとき、どんな落胆が日本を覆うのだろう。

 

 他の災害に比べて少しリアルなのは、自分も初めての大きな地震に驚いて外に避難したからだ。もちろん、被災地に比べればいくらほどの恐怖でもなかったのだろうけれど、小さくても生理的に反応する部分がある。 

 日本橋箱崎町がいかに軟弱な地盤かを思い知らされ、建物にも不安があったので、近くのホテルに移動してしばらく様子を見た。

 その後同僚と二人で会社に戻ってテレビを見、電車が動き出したことを知って午前2時過ぎに帰宅した。 あまりにも遠いので、歩こうとは思わなかった。

育った町                               20110310

 

 住んでいる所、あるいはそれ以上に育った所はとても大きな影響を人に与えるようだ。

 前にこのページで触れた(沖縄のウェブレポート)作家の駒沢敏器さんが、少なくとも中学の1年間(僕が二つ年長なので)、同じ学校に通っていたことが彼のブログでわかった。

 1学年12クラスというマンモス校ではあったけれど、廊下ですれ違ったかも知れないし、最上級生として朝礼台に立った時などは、彼の視界に入っていたかも知れない。

 

 駒沢さんを知ったのは、インターネットの「先見日記」というリレー日記だった。駒沢さんの日記は兄弟か友人が語っているように身近に感じられて、不思議に思った僕はブログを探し当てて読者になった。

 

 町田や三多摩などの新しい住宅地で育った人間は、東京への微妙な距離感と、新興住宅地にある合理主義的傾向を、アイデンティティの一部にしていることが多い。

 東京の人でなく田舎の人でもない、少し礼儀正しくて、標準語しか持たない存在。社会を見るときに、距離を置く傾向。それは僕の友人達に広く共有されているもので、駒沢さんの文章の中にきっと同じ匂いを感じていたのだ。

 

 これを見つけたブログはシュガーベイブの思い出を含めた一連のもので、まさにそうした内容が綴られていた。それを読みながら、エピソードが完全に符合する前に、きっとそれは町田だ!と確信に至ったのだった。

スパイス                                                             20110307

 

 水野仁輔さんという人が書いた、「かんたん、本格!スパイスカレー」を本屋で見つけた時、副題に「3つのスパイスからスタート。水野流ゴールデンルールで失敗知らずのカレークッキング」とあって、たった3つならやってみようかと思った。

数が多い順にクミン・カルダモン・クローブ・シナモン
数が多い順にクミン・カルダモン・クローブ・シナモン

 それまでもよくカレーは作っていたけれど、カレー店で見かけるように、数十種類のスパイスから作るのは時間的にも経済的にも面倒だと思って、カレーパウダーを使っていた。

 本の最初にある、基本のチキンカレーというのをクミンシードとターメリックとカイエンヌペッパーで作ってみたら、本当においしかった。

 それ以来、キーマカレー

バターチキンカレー

スパイシーポークカレー

ビーフ煮込みカレー

マイルドチキンコルマ

クリーミーフィッシュカレー

を作り、途中で大好きなMOKUBAZAのキーマカレーを真似てみたりと楽しんでいる。カレー作りは実験室の気配があるので、理工系の人にも向いているのかと思う。

色がとてもきれいだ
色がとてもきれいだ

 気が付くとホールとパウダーを合わせてスパイスは10種類を超えていた。

 本を読んで作った中では、クリーミーフィッシュカレーが個性的で印象に残ったし、家族の評判も良かった。カジキマグロで作るカレーだ。

散歩                                                                   20110304

 

 長い距離を歩いたことを話すと、なぜ?と聞かれる。「好きだから」では不親切な気がして、説明を試みるもののなかなか上手くいかない。

 考えてみると、それは生い立ちに原因があるのかも知れない。

 

 小学校低学年の時、校区外から通う友達がいて、その子の家の廻りには畑や草原があったので毎日のように遊びに行った。片道2㎞以上あって、着いてからも更に遠くを冒険していた。

 夏休みや冬休みには、「子供の国」に通っていた。これも片道4~5㎞で、園内がとても広かったから結構な距離になっていたと思う。

 こうしてみると、歩くことと楽しいことがセットになって刷り込まれた可能性がある。

 

 大学時代は、歩いている時に考えがまとまりやすいことに気付いて、建築学科の課題が出る度に近所を何時間でも散歩した。

 確か、昔の偉い人で、考えるのに適した所が厠・枕・馬上と言った人がいたはずで、馬上と散歩はある一部分似ていないだろうか。(ドライブも効果的だ)

 

 でも、歩いている時に何を考えていたか覚えていないことも多いので、ひょっとすると歩いている間は何か脳内伝達物質が多く分泌されて、ランナーズハイほどではなくても気持ちがいいのかも知れない。

たぬき                                                                20110301

 

 藤原新也のエッセイ集「藤原悪魔」は出版10余年だけれど、遅ればせながら読んでみたらとてもテンポが良くて楽しい。

 このうちの一文で、藤原新也は瀬戸内海の猫の島を友人の画家と訪ねる。いくつかの行き違いの後、出会った猫の群れの脇に、遠慮がちなタヌキの姿があった。

 

 藤原新也は猫に排斥されるタヌキを不憫に思って、魚肉ソーセージを手のひらで与える。野生の獣が手から食べることも藤原新也を物語っているけれど、そこで彼はタヌキの食べ方に驚いて金子光晴の詩までをひく。とにかく優しいタヌキのふるまい。

 

 そんな情景に便乗するのは良くないかも知れないけれど、深夜の帰宅途中で出会った我が地元のタヌキもとてもチャーミングだった。

 藤原新也の体験と同じく、側溝から現れるのだけれど、信じがたいほどに真っ直ぐで柔らかい視線をよこして、つんつんと先に進んだ後に振り返った様子は忘れられるものではなかった。

 

 タヌキはきっと、睫毛に触れるように物事に当たるのだ。

月光浴                                                               20110226

 

 カダフィ大佐はフセイン大統領にされてしまうのだろうか。

 フセイン大統領はきっと抑圧政治を行ったのだろうから、少しも肩を持つつもりはないけれど、大量破壊兵器はついに見つからなかった。ブッシュ元大統領が、人を良い人と悪い人に大別したのは傲慢を通り越して犯罪的だと思う。

 

 アメリカが大袈裟に出かける先に、いつも石油などの資源があることを見ると、アメリカが掲げる正義をそのまま信用することは難しくなる。

 そして不気味なのは、そうした覇権への欲望の有無より、自分達の民主主義が絶対善であるという盲目的、ひとりよがりな思い込みだ。

 

 沢木耕太郎さんは、アポロの月面着陸のとき中東を旅していて、その瞬間を街角でイスラム教徒と共有し、後に「深夜特急」に書いている。

 歓声が上がったのだと思ったら、それは悲鳴に似た嘆きの声だったらしい。月はイスラム教徒にとって神聖なもので、そこにアメリカが足を付けたからだ。

 

 月を愛する人たちに、太陽の方が良いと主張するような非礼はして欲しくない。強い者は、決して無邪気であってはならないのだ。

落下傘                                                                20110223

 

 「人の心は落下傘と同じだ。開いた状態でなければ、まったく機能を果たさない。」 と魔法瓶の発明者であるジェームズ デュワー博士が言った、と、ある本で読んだ。

 とても心に響いた。

 

 おそらく、何かのきっかけで心を閉ざしてしまった人にこのことを言っても、何も役に立たなさそうだし、疎ましがられるだけで終わる気もする。

 でも、心を閉ざすのにある程度の時間がかかるのだとすれば、あるいは今元気な人には、この格言もしくはアナウンスはとても有用ではないかと思う。

 

 落下傘を開かないと、地上で受け止めようとしてもできないし、本人も廻りの景色を見ること無く落ちてしまう。

 

 そして、落下傘を開くかどうかは、問題の深さではなくてスイッチ(引っ張りひも)の存在を知っているかどうかではないかと、ふと思うのだ。

 僕は、そのありかを知らないけれど、その時はあちこち引っ張ってみようと思った。

※これを読んだのは、「出世ミミズ」アーサー・ビナード著 集英社文庫です。

海岸美術館                                                          20110220

 

 南房総市千倉にある、浅井慎平さんの美術館「海岸美術館」に出かけた。

 この建物の設計は石井和鉱さんで、石井さんは安藤忠雄さんのようには有名でないけれど、僕たち設計関係者は(若い人を除いて)誰もが知っている人だ。

 初めてだったので、インターネットで場所などを検索すると、あちこちのブログに好意的な印象が残されていた。

 季節ごとの楽しみ方があると書かれていたので、期待して行ってみるとその通り、乾いた空気の里山に馴染んだ建物が迎えてくれた。スタッフの方は限られているはずなのに、とてもメンテナンスに心が配られていて居心地が良い。

 暖炉の前で、薪のはぜる音をゆったり楽しむことができたし、さりげなく植えられたレモンの木も知っているようで初めて見たのだと思う。 掃除が行き届いているのに、なぜかカメムシのミイラを発見したのも微笑ましくて、演出か?と思う。

 浅井慎平さんの作品は、ビートルズとかマリリン モンローのものもあって、撮影された時季は多年にわたるようだけれど、少しも古びた印象がなくてとてもカッコ良い。

 

 白黒写真の猫の表情を見ていたら、何か浅井慎平さんと時間が共有できたような気がして、ひときわ印象に残った。

 

 海岸線を移動したので灯台を沢山見ることもできて、昨年夏に続いて房総のファンになった。

雪                                                                     20110217

 

 このあいだ雪が降った夜、町田でバス停に並んだ。僕の使う路線は、ターミナルから離れたところにあるバス停のひとつで、片側一車線の一般道に面している。いつもの何倍もの長い列で、時刻表通りに運行していないことがわかった。

 牡丹雪で道は白くなり、数分に一台の割合で、車がそろそろと、シャリシャリと雪を踏んで通りすぎていく。

 

 すぐに傘が重たくなる雪で、ひとつひとつが大きいから空を見上げると半分が白い。買い物帰りの時間ではなかったから、誰もがひとりきりで押し黙ってバスを待っていた。

 

 いつもは何が騒々しかったのか思い出せないのだけれど、とても静かな街に親密感が湧いて、しばらくバスが来なくてもよいかな、と思った。

本                                   20110214

 

 よく晴れた日の朝、早めに駅に着いて、ベンチで新しい文庫本を開いた。数頁読んだころ電車が着き、立ったまま窓を向いて読み続けていると、電車は丘を回って車内に冬の朝日が差し込んできた。

 

 文庫本のカバーを外していたから、朝日が数頁を透過して、読んでいる活字の裏にいくつもの活字の影、半分は逆さまになった影、を映す。数分前に読んだその活字が、物語の中ではもっと時間を遡っていて、その数頁の過去に小さな懐かしさを覚える。

 

 普段、見開きの両頁しか意識せずに読んでいるけれど、本には、その両頁のずっと前とずっと後が定着されていることに気付いて、薄い文庫本を閉じてみた。

 口伝の物語のように、言葉の連なりが小説だと感じていたところに、本として、板状の立体として存在していることに気付かされ、小説にも、彫刻のように質量があるのではないかと一瞬思う。

 この5㎜ほどの紙束の中に、時間や空間を詰め込むことを不思議な作業だと思いながら、とても人間的な営みなのだ、と思う。

 

 新しい本が出来たとき、編集者は真っ先に作家に見せようとするだろう。小説はそのいくらか前に出来上がっている訳だから、それは装丁など全体の完成を確認する意味合いが濃いのだろうけれど、質量を感じることも目的に違いない。この時「出来た」と思う気持ちを想像する。

インゲン豆                                                           20110211

 

 NHKのBS放送で、北海道のインゲン豆のことを紹介していた。

 北海道には、それが600種あるらしい。うずらのような模様のものや、誰もが見慣れた金時、白や黄色の一色、ホルスタインみたいなものなど、バリエーションに富んでいる。

 一掴みずつ、たくさんの種類を敷き詰めた様子は、精妙なタペストリーを連想させた。

 

 何故、600種もの豆があるかというと、本州以南の全国から開拓で集まった人達が、それぞれの故郷の豆を持ってきたからだ。

 インゲン豆は、一部の品種は主要作物になったけれど、多くは自分達が食べるためのもので、だから農家の主婦の管理下に置かれて静かに栽培が繰り返されたらしい。

 

 番組の中で、70歳にしか見えない90歳のおばあちゃんが、86歳の夫を指さして、「この人は豆が大好きで、どんぶりで食うとった」というと、おじいちゃんが「あの頃は豆しか食うもんが無かった」、と遠い目をする二人の関係は絶妙だ。

 このおばあちゃんは最近、隣の農家のおばあちゃんに豆を分けてもらって、そのまあるいきれいな白い豆を「真珠豆」と命名していた。50~60年隣に住んでいたのに初めて分けてもらったらしい。

 

 今はのどかに見える広い農地も、昔の写真では原生林を倒木する格闘の最中で、イメージが繋がらない。苦労が偲ばれるけれど、開拓2世の人たちに影が見つからないのが不思議だった。影も食べちゃったのか。

世界                                 20110208

 

 茂木健一郎さんの本で、「たった1リットルの脳」というフレーズが頻繁に出てくるものがあった。その本の主題は忘れてしまったけれど、書かれていたのは「世界は確かに在るようでいて、しかしそれを確認できるのは信号情報を集積した小さな脳でしかない」、ということだった。

 100億光年という距離は、脳内で信号に置き換えなければ存在を認めることすらできない。過去という存在を指し示せないのに、現在は本当にあるのか・・・。

 

 信号である以上、僕たちが目の前の世界を自分の外に確かに在るものだと考えても、それは絶対ではないと言う。確かに、僕たちは脳の外に出ることができないし、他人の脳に入ることもできない。だから客観性というものを獲得する手段は無いのだ。

 

 子供の時、「あなたの見ている赤は、隣の人が見ている赤と同じかどうか誰にもわからない」という文章を読んで、不思議な感覚に襲われたことを思い出す。

 

 茂木さんは、世界が信号の集積であることを示すものとして、上下逆さまに見える特殊な眼鏡をかけたとき、しばらくは何もできなくなるけれど、慣れれば何の不自由も無く暮らせるようになったというアメリカでの実験結果を紹介していた。

 

 世界を構築しているのが脳・・・世界はすなわち脳だとすると、人の死は、つまり脳の死はひとつの世界の消滅だろうか。そう考えると、死は中断や欠損ではないような気がしてきて、だから不幸ではなくて単純な帰結だとも思えてくる。

 むしろ恐ろしいのは、自分の脳の世界がその構成材料(信号)の取捨選択において、世界の魅力の多くを取りこぼしていることだと思い至る。

曜日                                                                  20110205

 

 数多の星の中から、ギリシャ人は自らに歩調を合わせるものを7つ見つけた。観察し、遠い順に並べると、それは 土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月 だった。

 月の満ち欠けが12回繰り返されて同じ季節が巡り来ることを知っていたから、一日を、日の出から日の入りまでを12分割し、同じように夜も12分割した。

 そのひとつずつを7つの星が順に守護してくれると考えると、次の日の朝一番、最初の守護は25番目の太陽となった。24は7の3回転に3つを足したものだから、上の順番では常に3つ先が翌日の最初の守護となる。こうして日・月・火・水・木・金・土が並び、一週間となった。

 曜日の並びは、神話ではなくて数学だったのだ。

 

 このことを、僕は大正生まれの作家、柴田錬三郎のエッセイで教えられた。

 時代小説にも、剣豪小説にも疎い僕は、柴田錬三郎の小説を読んだことがない。でも、テレビで何度か見かけた姿が平成の日本が失ったものを発散していたように思い出されて、ブックオフでエッセイ集を買ってみた。

 はたしてそこには、昭和原人のような男性が存在していた。

袋断熱                                                                20110202

 

 ここのところしっかり寒い日が続いていて、昨晩の帰路も夜気が冷たく固まったようだった。寒さのためか、極めて身近な断熱を思い出した。

 

 外苑東通りに面したペンシルビルの7階に事務所を借りていたころ、仲間と二人の設計事務所は仕事の波に翻弄されて、しばしば徹夜が必要だった。

 大抵一緒に行動していたはずだけれど、たまたま一人で深夜に図面を描いていたとき、疲れて進まなくなったので仮眠を取ろうと思った。

 

 寒い夜で、テーブルの上よりはカーペットの方が暖かそうだから、不要になった図面をシーツ替わりに横になったのだけれど、どうにも身体の上面が寒くて寝られない。

 ふと思い付いて一枚だけ残っていた黒いゴミ袋をかけてみたら、かなり効果があった。嬉しくなったものの面積が小さくて不十分なので、切り開いて身体に巻きつけることにした。

 

 すると、断熱効果は無に帰した。あるか無いかの厚さでも、空気層が断熱効果を発揮していたのにその層を開いてしまったからだ。その発見は、ほんの短い間寒さを忘れさせるものでもあった。

 

 どこかで遭難した時、ゴミ袋を切り開いてはならない、というのは実感を伴う教訓だ。

アジア杯優勝                            20110130

 

 大きなオーストラリアと渡り合って、怯むことなく攻めたサッカー日本代表が、アジアカップで見事優勝した。おめでとう、嬉しい。

 

試合終了後、楽しくハイライトシーンを見ていて印象に残ったこと。

 

◇李のシュートが決まった直後の本田の祝福。完全にウエスタンラリアットが決まって、なお倒れない李のユニフォームを自分は倒れたまま掴み続けた。

◇李の、空に矢を放つパフォーマンスが神々しく見えた。

◇シュートが決まった直後にカメラ方向に振り返ったザッケローニ監督の、満面の笑みのさらに上に貼りついた「的中、見たか!」という顔。

◇セレモニーで吹き上げられた金色の紙吹雪。屋根を超える高さに達し、延々と続いてピッチを金色に染めた。さすがに石油の国。

◇オーストラリア代表選手の、とてもスポーツマンらしい姿。

 

 翌朝、半分目覚めた状態で4回も同点ゴールを決められて、その度に「いや、入っていない。これは夢だ。」と確認した。ゴール内の、鮮やかな緑の芝に転がるボールは夢なのだ。

 

 李がフリースペースを作り出した後に、長友はセンタリングを蹴った。李は停まり、ゆっくり右足に体重を乗せてから回転の準備に入っている。浅い放物線を描くボールがジャストポイントに来ることを知ってから、とても長い時間だっただろう。その間、選手は何を考えるのだろう。そして、その様子をこれから何回李は思い出すのだろう。

細貝                                                                  20110128

 

 サッカーアジア杯の日韓による準決勝は、とても高い視聴率の中、僕たちに嬉しい結果を届けてくれた。その後のニュースなどでも触れられたけれど、この試合の日本の2得点に共通するポイントがあった。

 

 1点目のときの長友のスピードと、2点目のときの細貝のスピード。

 

 二人とも、ボールが出される前に確信を持って最高のスピードでゴールに向かった。後からのインタビューでは、相手のサイドバックを警戒させないために緩やかに走り、警戒を外した瞬間にトップスピードにチェンジしたことを長友本人が話していた。

 見ているときは画面の中で、他の選手の流れと異質な運動を感じただけだったけれど、その小さなタイミングに同調した、本田と前田もなんだかF1レーサーのようだと思う。

 

 これに比べて、細貝のこぼれ球への詰めは単純明快だった。でも、PKを蹴る本田を見ながらスタートして、加速を終えてキックと同時にラインを通過したのは、競艇のスタートのようで極めて意志的なものだ。反応や対応ではない。

 細貝選手がインタビューで答えたように、何かできることをやりたかったのだと思うけれど、この走りの先のピンポイントに、本当にこぼれ球が転がるかみさまの差配。

 

 今までも、代表選手は常に勝利に貪欲だったと思うけれど、今回のアジア杯はそれが僕にもはっきり見えて、最高に楽しい。二人の走りの軌跡は、一瞬閃いたナイフのようで、きっと多くのサポーターの目に強烈に焼き付いたはずだ。

インド富士                              20110126

 

 東小金井駅の南側にある、「インド富士」というカレー店に出かけた。

 何とも言えない気配の漂う店名だけれど、若い店主は客が帰るときに身体を正対させる丁寧な人だった。

 でも、お店の雰囲気は店名に同調していて、かかっている音楽ものんびり個性的だ。

 カレーはインドで修行してきたという本格的なもので、でもそれは基本のところらしくてインド人が作るカレーとはずいぶん違うように思える。

 カジキマグロのカレーや、動物性のものを一切使っていない野菜カレーにも魅力を感じたけれど、やっぱりチキンカレーを頼んだらとても美味しかった。

 

 カウンターの離れた場所にいくつか本が立てかけられていて、手の届くものは「美味しんぼ」のカレー対決編と、「マグナムサッカー」という写真集だった。

 マグナムサッカーは、マグナムという写真家集団(キャパもメンバーだった)が、世界のあちこちでサッカーしている人達を撮ったもので、いつもボールと人が写っているけれど、背景は北極から砂漠、路地裏まで実に多彩だ。世界が万華鏡のように見える。

 

 家に帰って、インド富士に感謝しながらマグナムサッカーをネット注文した。雰囲気の良い人、しかも興味の似通った人はいいなあと思う。

格                                                                      20110124

 

 小田急線向ヶ丘遊園駅近くの民家園に行った。

 初めてボランティアガイドの方に解説をお願いすると、その方は10年前に銀行を定年退職された男性で、ガイドになって勉強したことがとても自分のためにもなったと話されていた。

 2時間も一緒に歩いて説明してくださって、勉強になったしとても楽しかった。

 

 説明の中で最も頻繁に出てきたのは、『格』という言葉だった。

 

 江戸時代は封建社会だから、建築にも建て主の身分によって出来ることの限界がある。今でこそ、お金があれば大抵のことができるけれど、その頃は身分や格式がその前に立ちはだかっていたのだ。

 屋根・床・外壁の材料や玄関の構え、基礎の工法に至るまで、時の行政におうかがいを立てる必要があったらしい。

 脆弱な基礎では風雨に長くは耐えられなかったので、民家園にある建物はみな豪農や許可を引き出せる有力者の家だったのだそうだ。

 

 支配の構図は家族関係にも及んでいて、長男と次男はとても現代の兄弟という関係ではなかったと聞くと、大変だったろうなと思わざるを得ない。

 

 最近の日本は閉塞感に覆われているイメージがあると言われるけれど、当時の人からすると、天井が無いような、晴れやかな風景なのではないかと思った。

予防米                                20110121

 

 寒い日が続く。鳥取などで、雪の重さでたくさんの漁船が転覆する前代未聞の被害があり、オーストラリアでは洪水がとてつもない範囲に及んでいることをニュースで見る。

 最早、異常気象という言葉は使い飽きたようであまり目にしなくなったけれど、これらはやはり異常気象の産物なのだろうか。

 

 「遙か西の国には象という、家よりも大きい動物が居るらしい」と話していたころは、隣村の土石流だって知らずに過ごしていただろう。情報化というのは気忙しいものだと思ってしまう。

 

 一方で、花粉症対策としての米が開発されているというニュースもある。米に花粉症ワクチンの性質を持たせるもので、毎日のご飯が予防接種になるのだ。

 今年は花粉の飛散量が昨年の5~10倍という予想らしく、発症しているかどうか微妙な僕は確実にヒットする予感がある。

 早速教えてくれた予防米の開発は、大いに気休めになってこれは情報化の恩恵の方だ。

冬の夜空                              20110118

 今日の夜はほぼ満月で、もう長い間雨の降っていない冬の空気は澄み切っていて、だからとても明るい夜だった。

 黒と青の中間の空に、白いと言いたくなる雲が浮かんでいる。夜の雲が表情豊かだ。

 

 町の灯りが空を照らしていることもあるだろう。でも、そうした変化よりも大きいと思うのは、カメラの高感度化だ。

 

 以前はプロ並みの人を除いて、夜写真を撮ることはなかった。フラッシュが焚かれて、被写体は夜行性動物のようになるのがせいぜいだったからだ。それがデジタル化によって高感度が身近になって、フィルムを無駄にする心配からも解放されて、加えて明るさなども後から調整できるようになった。

 

 以前読んだ記事に、高感度マイクの話があった。森や沢に人の耳を大きく超えた能力のマイクを持ちこむと、さまざまに溢れる音が交響楽のように世界を創るらしい。

 

 何かがあると思うと、期待して眺めることが増える。昼の空を見上げて、この先に星があるのだなと思うほどに、複眼的に見ることができるようになった気が、少しだけする。 カメラのお陰だと思う。

ブラバン                                                              20110115

 

 enTが貸してくれた本の中に、津原泰水という作家の「ブラバン」という小説があった。知らない作家の長編小説ということで、後回しにしていたのを軽い気持ちで読み始めてみたら、すごく面白くてあっという間に読み終えた。

 

 僕は高校時代のある期間、ブラスバンド部に在籍した。もともとは運動系が好きなのだけれど、中学時代の一年間、膝を傷めて体育を見学したことが運動部への入部をためらわせて、ジャズに対する関心から金管楽器に触れてみたいと思ったのだ。

 

 この本は、勤勉でなかった部員にもたくさんの思い出があったことを教えてくれて、そして手触りのようなものさえ蘇らせてくれた。

 そのひとつは部員の屈託の無い笑い声だ。そしてその廻りの空気。教室。準備室。

 

 僕の通った都立高校には賢い奴がそこら中にいたのだけれど、賢い奴が屈託なく笑うのが好きだったことに今更のように気付いた。ブラスバンド部にあったのは、運動部とは違って少し引っ掛かるところがあるのに、弾けている笑い。同調を求めない、芯の詰まった笑い。

 

 カバーの作家紹介スペースには、僕より幾らか年下の広島県生まれで、少女小説作家として活躍とあるけれど、この小説は若い人向けのものではないと思う。登場は少しだけれど、主人公の父の振る舞いに胸が熱くなった。

望郷                                                                   20110114

 

 最近テレビで、日本に住む外国人を探す番組を見た。日本が認めている国の数が193で、そのうち189カ国の人が日本に在住していると聞いてびっくりする。

 日本に居る小さな国の人は多くが留学生のようだった。政府機関などから出向のようにして日本の大学などに来ているのだ。

 

 一方で少し前に、日本から見れば辺境と言いたくなるところに暮らす日本人を捜す番組もあった。

 日本人があまり知らない国に住んでいるのは、国際結婚をした日本人女性が多いようだ。

 取材の中で故郷のことに話が及ぶと、どんなに幸せに暮らしている人でも親や兄弟を思って涙が浮かぶようで、見ているこちらも胸をつかれる。

 

 興味深かったのは、どちらの番組にも、旅行でその国が気に入って定住を決めた人も多く居たことだ。

 家族で外国に暮らすことは想像できても、ひとりきりで異文化に飛び込んで、定着をはかるなどということはドメスティックな僕には考えられなくて、その勇気と決断力には脱帽するしかない。

 

 知らない人間からすると、心の中でいつも故郷を思い続けるのは豊かなことに思えるけれど、もちろんそんなに簡単なことではないのだろう。帰りたくて気持ちの張り裂ける夜もあるのだろうか。

江ノ島                                 20110110

 

 昨日、少し遠くまで歩こうと思って目的地を考えた。以前長い距離を歩いた時は、帰りの体力が気になって円を描くようになったのがすっきりしなかったので、今回は帰りに電車を利用しようと思った。

 そうすると、小田急線に沿うのが簡単で、小田急江ノ島線は町田から真南に向かっているので丁度良い。

 午前九時過ぎに家を出て、江ノ島に夕方4時ころ着いた。

 

 南風が吹き続けたのは余計だったけれど、出発時に左手にあった太陽が正面を回って江ノ島では右手に落ちかかっていたし、丹沢は、右前方にあったのが横にきてから右後方に下がっていったから何だか達成感がある。

 歩き始めは大和あたりで帰ろうと思っていて、何となく通り過ぎた後湘南台で疲れを感じた。でも、せっかくだから藤沢まで行ってみようと思って、白旗神社まで行くと海の気配がしてきたので頑張ってしまった。

 

 焼き蛤をひとつ食べて帰ろうと思ったのに、江ノ島は人出が多くてそれどころではなかったのが誤算だ。

 今日ナビタイムで検索したら33Kmあって、よく歩いたと思う。

 

 以前、正月に箱根徒歩駅伝をやらないかと友人達に話して無期限保留になっているけれど、結構できるのではないかと思った。でも、重ねて言うと間違いなく嫌われるので温和しくしていよう。

カッコ良いカレー                          20110108

 浅草にカッコ良いカレーがあった。

 味を評価するときに、カッコ良いというのはおかしな表現かも知れないけれど、それでもぴったりだと思う。

 

 敷地調査に出かけ、昼に入ったインド風カレー店「夢屋」(浅草2丁目交差点付近)は、他に客がなくて静かだった。お店の女性にマトンカレーを頼むと、カウンターの中で腕を組んでいた店主が、マトン、のところで素早くターンして作り始めた。

 スパイスの香りが良かったので期待を膨らませていると、出てきたカレーは期待をはるかに超えた素晴らしく美味しいものだった。

 吟醸酒のようにど真ん中ストレート。

 

 ワインは好きなばかりで知識は無いものの、その美味しさは大きく分けると二通りだと思う。ひとつが奥行きを深くして立体的にしたもの。もう一つが研いだもの。それぞれ赤と白の傾向だけれど、時に逆の場合もある。

 

 夢屋のカレーは侍が真っ直ぐ歩いているような様子で、スキがなくムダもなく、充実していて強い。研ぎ澄まされた味。

 帰り際に「最高に美味しい」と言ったら店主が一瞬破顔した。

 

 外苑西通りにあるヘンドリクスのチキンカレーは、賑やかにカッコ良くて、そう言えば西部劇的な感じもする。

東西の横綱がそろった。

ドーハ                                                                 20110106

 

 サッカーのアジア杯開幕が近付いて、報道が増えてきた。日本代表がドーハの悲劇の舞台となったアルアリスタジアムで練習するため、あの落胆に言及するものも多い。

 

 あの時、山なりのヘディングシュートが同点ゴールになった時、僕は自宅でテレビを見ていて椅子から落ちた。それはうっかりではなくて、座っていられない心境でズリ落ちたのだった。言ってしまうとみっともないけれど、代表選手よりも自分が可哀想だった。

 翌日は出張で、朝早く羽田空港に4人が集合したとき、みんな悲惨な二日酔いで会話がなかったのが今思い出すとおかしい。

 

 ついこのあいだのようでいて、もうすぐ18年だ。長男にこの椅子から落ちたんだと話しても聞く耳を持たないのは、彼の年齢近く昔のできごとだから仕方ないだろう。

 

 正月休みの番組で、日本代表サッカーの50年の歩みを振り返っていた。5時間通して聞いてみると、行き当たりばったりのように見えた歴史が必然であることが理解できた。

 日本は強くなっている。アジア杯で優勝して、コンフェデ杯で活躍するところを見せて欲しい。

煙草                                                                   20110103

 

 箱根駅伝のシード圏争い (国学院大がコースを間違えながらもなんとかシード圏内を確保した )を見てから、車で20分ほどの小山田緑地に出かけた。

 多摩市と町田市の境目くらいにある広場と雑木林からなる公園で、とても広いから空気が澄んでいる。僕は空気が美味しいところに行くと、妙高のワンダーフォーゲルの休憩時に吸った煙草が美味しかったことを思い出すので、久しぶりに煙草を吸いたいと思った。

 

 煙草は、4~5年前に吸う場所が無くなってきて、探している自分が何となく面倒になった時から遠ざかっている。それでも煙草が好きなことは何も変わらない。

 昨年の暮れ、と言っても何日か前に、高校の友人達と忘年会をしたとき、隣でOk-kが吸っている煙が漂ってきて良い気分だったことを思い出した。

 

 小山田緑地は、丹沢から奥多摩やもっと北の山々までが見渡せて、とても静かで落ち着いた気分になれるお勧めの場所だ。

パスキン                               20110102

 

 池田20世紀美術館は伊東市だから近くないけれど、平日ならほぼ貸し切り状態で絵を鑑賞できるようだ。このあいだは、着いた時こそ声高に話す女性二人連れに閉口したものの、その人達が帰ってしまうと静まりかえってのんびりした時間を過ごせた。

 建物は彫刻家が設計したものということで、小振りな割に変化に富んでいて楽しい。でも、ブラインドの隙間から直射日光が絵に当たっていたり、床がタイルのために靴音が反響したりと、違和感を持つところが無い訳ではない。

 

 パスキンの「昼寝」があって、最近どこかで見たなとしばらく考えて、江國香織さんの著書の「日のあたる白い壁」にあったのだと思い出した。

 エッセイの内容があいまいになっていたので、どんな風に書いていただろうかと思いながら僕もじっくり鑑賞した。

 家に帰って本を開いてみて、その豊かな観察力と想いの広がりに驚き、なるほど作家とはこういう存在なのかと納得させられた。

 

 池田20世紀美術館にはダリやピカソ、ミロなどの魅力的な作品もあって、数が少ないからゆったり楽しめるようだ。

おめでとうございます

 

 新年おめでとうございます。このホームページを開いて、少しでも関心を持ってくださったことに心から感謝申し上げます。ありがとうございます。(以下は通常モードで失礼します)

 

初夢                                 20110101

 

 通常初夢は、元旦目覚めたときの夢ではなくて、新年になった後に寝て見た夢、つまり二日の朝目覚めたときの夢だと聞いていた。それは元旦朝の夢が、前年の就寝による夢だからという理由だったと思うのだけれど、新年の鐘を聞いた後、午前2時過ぎに寝た場合もカウントしなくて良いことになるのだろうか。

 

 そんなことを思うのは、今朝目覚めたときの夢がつらいものだったからだ。何も深刻なものではないけれど、それは昨年の反省と今年の奮闘を強烈に迫るものだった。

 

 そんな夢を見なくても頑張らなければならないことだらけなので、ここに小さく、ほぼ内緒に決意しようかと思う。